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当直室のベアトリーチェ・チェンチ

 当直の夜に父親を殺す夢をみた。具合の悪くなった誰かを診るために泊まっている夜に。PHSの着信音ではなく、夢の中の叫び声で目が覚める。木製の2段ベッドの上で、怒りと憎しみに震えながら声を押し殺して泣く。

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誰かの息子と自然発生した娘

  「誰かの息子なの?」 「みんな,”誰かの息子”だよ」  正体を隠しパリで映画館を営むユダヤ人女性であるメラニー・ロランのいくぶん軽蔑を含んだ問いに対し,プロパガンダ映画の主人公となったドイツ国防軍一等兵のダニエル・ブリュールはその微量の軽蔑の念には気づかずこう応える. 映画『イングロリアス・バスターズ』の1シーンである.大好きな映画だが,しばらく観ていないのでセリフの細かい部分はうろ覚えかもしれない. ——— 「みんな,”誰かの息子”だよ」   わたしはそうは思わない. いまローテート中の診療科にはその性質上,「誰かの(どこそこの)息子」が比較的多い.実家がその診療科のクリニックだから,自分もその道に進んだというパターン.つまり,憎むべき”開業医の息子”である.憎むべき,と書いたが,ここにいる彼らは憎まれるような人たちではない.性格がよく,仕事に対し誠実な姿勢で,なによりわたしに親切だ.同じような生まれでも,事あるごとに,まったく無関係の状況であっても親の話を持ち出し,これ以上かけられませんよというくらい鼻にかける連中とはまったく違う.なんかいろいろかけすぎて,お前のなっがい鼻,もう折れてるみたいだけど.耐荷重を考えた方がよろしいんじゃないかしら? 学生時代から絶対に〇〇科医になると言っていた 1 つ上の N 先生が, 4 月からまったく別の診療科( ×× 科)に入局するという話をきいた.〇〇科医になるために医学部に入った,という勢いだった彼が.お付き合いしている女性の実家が ×× 科らしいということだった.年齢と家柄から心当たりがあった.案の定,地元でいちばん大きいクリニックだった.そこの娘(つまり前述の女性)の口癖は「パパのクリニックはいつも 2 , 3 時間待ちなの」だった. そこの家にはこどもが何人かいたが跡を継ぐ職に就いた者いない.近い将来,娘の夫になるであろう N 先生が後継に決まりである.地元でいちばん大きいクリニック. 2 , 3 時間待ちはザラの.彼は”誰かの息子”の仲間入りを果たしたのだ. 「職業の貴賎はないと思う(地主の息子除く)」というようなツイートが以前少しバズっていた.”誰かの息子”を憎む人間の多さが見て取れる.かくいうわたしも、前述のような一部の善良な方々を除いて、”誰かの息子”のことは好きではない.わたしは自分のことを公平な人間だ

あなたを選ばないだけ賢い

不動産とか投資とか、そういう関係の不審電話がお医者さんのみんなたちにかかってきてるから気をつけてね~っていうのが院内で話題になっていて、ちょうどそれに引っかかっちゃった若い女性の先生 ( 〇〇先生 ) がいたから他の先生たちから今度は得体の知れない業者にお金払っちゃダメだよって言われていたの。そこまではよかったのだけど、その場にいた中年医師が急に「〇〇先生はさ、悪い男にも引っかかりそうだよね」って言い出したのよ。ああん?てめえ自分がどれだけ失礼なこと言ってるかわかってんのか?大体それいまの話題と関係ねえだろうが。何勝手に話題をすげ替えてやがんだって胸ぐら掴んで伝説になっちゃってもよかったのだけど、まだ 6 月だし、今年度始まったばっかりだし伝説になるには時期尚早かなあって黙っていたら、「相手が浮気しても、急な当直で遅くなっているのかなあとか、都合よく解釈してくれそう」「相手が違う医局なら何やってもバレなさそう」「なんなら同じ医局でも気づかなさそう」って最低な発言を繰り返していて目の前の〇〇先生のことを傷つけ続け、挙げ句の果てには浮気の話で盛り上がりだして「男ってのは誰でも浮気するよ。そういうものだから」「ぼくの奥さん、結婚前にはぼくは浮気すると思うよって言ったらちょっとの浮気は許すって言ってたのに今は浮気許さないと言っててこれこそちょっとした詐欺だと思う」ですって。このあいだも言ったけど脱穀機にでも突っ込んでいなさいって話よね。〇〇先生にかわって、お前みたいのを選んでないだけ〇〇先生は賢いんだよ。てめえに侮辱される筋合いはねえんだよ。そんなこともわからねえのか。なんならナニだけじゃなくて全身脱穀機に突っ込んでやろうか?浮気よりもよっぽど刺激的だろうがよって脱穀機持ち出して伝説になっちゃってもよかったのだけど、先月の誕生日に恩師に「よい研修生活ができるといいね」って言ってもらったばっかりだったから、恩師が悲しむかなあと思って、もともと同じカンファ室でカルテ書いていただけでわたしはこの会話に参加してなかったわけだ し、 Enter キー強めに叩くだけで黙っていたの。 次やったらわたし、伝説になるわ。

ロッカー

   現在の自分がこの世でもっとも醜く、有害な生物-すなわち春休み中の大学生-に身を落としているという事実に耐えきれなくなり(というわけではなくただ単に大学に用事があっただけだがこういうインチキトンチキな理由付けをした方が書き出しがかっこよくなるかなと思ったので)、数日ぶりに大学に行ってきた。  数日ぶりの大学。毎日行かなければならないときには愉快な場所には感じにくいが、数日ぶりとなると妙な新鮮さがあってなかなかいいものだな、と思う。まるで倦怠期の恋人のようである。恋人がいたことがないので倦怠期の恋人がどんなものなのかさっぱりわからないが、倦怠期の恋人という文字列から漂うほのセクシーさが気に入っているのでわざわざ書いた。この文章を目にした倦怠期の恋人経験のある方で、倦怠期の恋人ってそういうものじゃないよ等の文句がある方はわたしのask.fmに匿名で文句をお寄せになるかお住まいの自治体の広報課にクレーム電話をかけてくださればそれで結構だ。よく知らないが公務員なんてどうせ暇なのだ。公務員をやっていた人間が「公務員は3日やったらやめられないよ」と言っていたので間違いない(毎日忙しく業務をこなしていらっしゃる公務員のみなさん、本当に申し訳ございません。大体ジョークだから怒らないでください。でも知り合いの公務員の件はマジです)。  帰る前に自分のロッカーのようすを見に行った。台風のときに川のようすを見に行くと高確率で死ぬので見に行ってはいけないとNHKの高瀬アナも言っていたが、春休みに自分のロッカーのようすを見に行ってはいけないとは誰も言っていなかったからである。ひとがやってはいけないということはやっていけないのだが、やれともやるなとも言われていないことに関しては、自分の裁量でやってもいいのである。日本というのはそういう国なのである。日本っていいね、豆助や。  くたびれたリサとガスパールのキーケース(くたびれているのはリサでもガスパールでもなくキーケースである)から鍵を出し、ロッカーを開けると、そこはワルシャワ蜂起後のワルシャワ市内の一歩手前くらいに荒れていた。白衣は片側の肩(かたがわのかた、おもしろい響きである)がハンガーからずり落ち、運動靴を入れていたビニール袋の端は扉に挟まりヨレヨレになり、ラインマーカーだらけのプリントが散乱し、クリーニング店の袋に入ったままの解剖衣が