安定した技巧にはっとするほど叙情的な音色、ときに繊細、ときに大胆な表現力で聴衆を魅了する彼女はヴァイオリニストだった。美人音楽家などと持て囃されることはない丸顔の平凡な顔立ちは、しかし彼女が技量だけでその地位を確かなものとしていることを示していた。17歳で世界最高峰と呼ばれるコンクールでの優勝を果たしてから20年近くの歳月が経ち、その音色はさらに円熟した響きを帯びて聴く者を至福の世界へといざない続けていた。 そこはコンサートホールで、わたしは客席で彼女のリハーサルを聴いていた。本番前の静かでぴんと張り詰めた空気の中になぜわたしがいることが許されていたのかはわからない。わたしは彼女の伴奏者であるどころか譜めくりでも、彼女に当たるスポットライトを調節する裏方ですらなかった。しかしそのようなことはどうだっていい。これは、夢なのだから。 彼女とわたしの他に誰もいないホールに響いていた音色が、ふいに途絶えた。彼女は楽器を肩から下ろし、はあ、とため息をつき、そのまま無言で舞台の袖に姿を消した。そのため息はこれまで彼女が奏でていたどの音よりも深く響いた。 ひとりホールに残されたわたしは、彼女の音色とため息の中に閉じ込められたようにしばらくじっと座っていた。どのくらいそうしていただろう。ようやくロビーに出ると、スーツを着た男たちが慌しく動き回っていた。青ざめている者、焦って何度も吃りながら電話をしている者、警備員に何か指示している者、ただただうろたえる者、それを怒鳴る者。 わたしはその中のひとりを捕まえて、何かあったのですかと尋ねた。 「ほんの少し前に、彼女が飛び降りたんです」 それってどういうことかしら、思ったままにわたしは口に出していた。それは彼に対する質問ではなかったが、彼はゆっくりと、嚙み砕くように言った。 「彼女は、自殺したんです。ここの屋上から身を投げて。リサイタルを数時間後に控えたいまこのときに」 「楽器は、彼女の楽器はどうなったのですか」 「楽器は、楽屋に置いたままでした。ケースにきっちりとしまわれて、鍵がかけられていました。鍵は、まだ見つかっていません」 なぜか楽器のことなど聞いたのか、自分でもわからない。しかし彼女が死んだと聞かされて、その意味もよくわからないままに、いちばん最初に思い浮かんだのは楽器のことだった。奏でる者を失くしたそれがどうなってし...